長谷川一成の家族

家族について考える。幸せな家庭に育った子供など驚くほど少ないのだ。だから少しずつ書いていく。

1999年3月16日

父からの手紙が来ていたので紹介する。

正確にいえばまだ、ではあるが、とりあえず卒業、就職おめでとう。

本来であれば引越しの手伝いに東京に行き、家族で食事でもしながら、この就職難の時代に就職できる一成を直接祝福したいところだが、一成は母さんに引越しの手伝いに「来ないでくれ」といったので、我々は行かないことにした。

一成の言葉には母さんはだいぶ悲しんでいます。母さんを悲しませることを言ってはなりません。それから、母さんに「基本的に、家はきらいだ」と言ったようだが、そんなことを、身内に言うのはかまわんが、他人に言ってはなりません。一成の人間性が疑われます。

一成は自立心が強いので、なんでも自由に、自分の判断でやりたいと思うだろうが、それでは相手の意見を受け入れる余裕がなくなります。社会生活の中で他人との衝突が絶えません。

相手の意見を受け入れる余裕を持ち、そのときは自分が正しいと思っても、自分の正しさを分らせるためには、廻り道をしてもよい、くらいの深い心、度量を持ちなさい。

自由には責任が伴うということを忘れないように。

これからの社会生活や将来についても話をしたいのだが、前述のごとく事由で、東京には行かないので、手紙で済ますことにします。

次にいうことをしっかり頭にいれ、一回きりの人生を取り返しのつかないことにしないよう、そして毎日の生活を楽しく送ってください。

  1. 目上の人を敬い、言葉づかい、態度には十分心をくばること。
  2. 人から後ろ指をさされるような犯罪を犯さないこと。
  3. 自信を持ち、果敢な行動をし、しかしその中に一点の余裕を持ち、引き際を失しないこと。
  4. 人を許せる広い、深い心をもつこと。
  5. 家族を大切にすること。

……なんだか文面だけ見ると私がとんでもないはねっかえりみたいだが、それだけに、なんだかここに書かれていることは、自分に関係のあることなのかと疑問に思う。

これは結局、すでにお互いが会わなくなって久しいという事実が引き起こした認識のずれなのではないかと思う。父の頭の中では、私は高校の頃から年をとっていないのだろう……しかし、私の高校時代は、他人との衝突なんていうものはほとんどなかった、空白のような無意味な時代だったので、父が高校の頃の私を知っているようにも見えない。安直な分析をすると、これは過去の自分、すなわち私の父親である長谷川健治自身に向けた、父の独り言なのではないかと思う。安直過ぎるので、本人から否定の言葉をもらいそうだが、少なくとも私にとって不愉快でない解釈はそれだ。父自身が、自分の人生に後悔し始めているのではないか。

それに対して、不愉快な解釈というのはつまり、「父は自分のことをこんな風に見ている」というものである。この手紙の文面をダイレクトに受け取ると、まあ、親として、年長者として、若輩者に与える助言といった感じである。私に、というか自分より若い人間に助言を与えたくなる年長者の心理というのは分からなくもない。自分もそういう立場になるときがあるからである。ただ、若輩者からいわせると、助言というのは結局身につかないものである。「誰かの助言より自分の失敗」という言葉通りで、助言より経験から学ぶことの方が多いし、結局そっちしか身につかないのである。自分で失敗してみて初めて「ああ、あの助言はこういう意味だったのか」と学ぶことの方が多い。ま、世の中には助言を守って、失敗を未然に防げる人もいるのかもしれないけど、私にいわせるとほとんど奇跡のようである。失敗しないと学べない。だから、父が助言をすることの目的が、「私が余計な失敗をしないようにするため」なのか「私が失敗したときに自分の正しさを証明するため」なのか、そこんところがよく分からない。ま、いくらなんでも後者の解釈は、肉親を意地悪く考えすぎてると思うから、ここはまっとうに「私が余計な失敗をしないようにするため」だと考えるようにしよう。……さて、その目的は失敗している。私は助言から失敗を未然に防ぐということをほとんどしないからである。逆に助言としてありがたいのは自分が失敗したときである。失敗して、「どうして失敗したのだろう? どうすればうまくいくのだろう?」と考えているときに与えられる助言というのは、私にとってはとても役に立つし、ありがたいと思う。私にとって両親というのは、そういった、「自分が失敗したときにありがたい存在」であって欲しいのだが、どうも今の状態は、「失敗すると決めつけて、人の行動の邪魔をする存在」になってしまった気がする。私の意見だけど、これは助言を与えるタイミングがかなり間違っているのだ。

もちろん、ここで終わらせるのは簡単だけど、ちょっと自分に不利な話をしよう。それはつまり、私の言ってることは、忠実に守られるとどういうことになるかという話である。親は何もいわない。何か言われてもそれを助言として、子供は、失敗を未然に防ぐことに役立てることができない。だからまともに子供は聞かない。何も聞かないくせに、それで失敗したら、「どうすればいいんでしょうか?何が悪かったんでしょうか?」と聞いてくる。

「自分で考えろ」と言いたくなるだろう。何を言っても聞かなかったくせに、失敗して泣きついてくるとは何事だと。私は、そこで、たとえ無茶で女々しい注文だということを知っていても、そこで、助言をして力になって欲しいのである。はじめから口出しはして欲しくない。困ったときに力になって欲しい。私が言いたいのは、こっちが必要としていないときにおかしな口出しをせず、力になって欲しいときに力になってくれるという、非常に都合のいい「愛」だ。もし、その愛を私に与えられないなら、両親側から見ると愛情なのかもしれないが、私にとっては「おせっかい」でしかない干渉をやめて欲しいということである。あちらにとって面倒な条件を提示していると思う。だが、今のままで、両親が私に干渉するという状況では、お互いの関係は悪くなっていく一方だと思うのである。

1999年6月28日

本当に小さい頃、私は父におやすみなさいのキスをしていた。家族では「おやすみのチュ」と呼んでいた。弟もしていた。二人で父の両頬にキスをするのが、おやすみの儀式だった。

ひどくアメリカンだ。だが、それだけではないだろう。私はできるだけ小さい頃の記憶を思い出そうとするが、薄れていくものもある。このページはそんな記憶を、思い出したときに思い出せるだけ書いていくためのページだ。そして、思い出すに、あの儀式は何だったのだろうと思う。寝る前、母は必ず「おとうさんにおやすみのチュは?」と言っていたし、言われて僕ら兄弟はキスをしていた。母はなんだか嬉しそうだし、父もなんだか嬉しそうだった。母の喜び方と、父の喜び方には共通点があって、つまり、今思い出すに、キスをする僕らを見る父や母の視線が、なんだか自分を不安にさせたことを思い出す。父にキスをする二人の息子の姿を見る両親の視線は、一体、何だったのか?

僕は、帰省するたびに、いまだに父の、よく分からない行動に悩む。簡単に考えると、それは、俺から見ると、ドラマの幸せそうな雰囲気を意識的に演出しているような、非常に不自然な感じがする。買い物に行くと、父はいまだに海に寄ったり、何かを私と一緒にしようとする。それに、どこか不自然なものを感じる。どこか無理していないかと。酒を飲んでいるときには、一緒にどうだと勧めるし、しかし、父と一緒に海に行きたくはないし、父と一緒に酒を飲みたくはないのだ。それは、思春期の反抗心ではなく、ただ、父が、一緒にいて、あまり愉快な人間ではなく、一緒にいて安らげる存在でもないということが理由だ。

この場合の「安らぐ」は、家族としての包容力とか、家族愛について述べているのではなく、友人としての安らぎのことだ。父が、私と同い年だったとして、父と友人になれるかという点については、非常に微妙だと思う。父が父でなければ、彼は私に対してもう少し適正のある距離を取るのかもしれない。そういう意味で、父や母が、家族とはこういうもので、このくらいの距離感だ、と決めている距離で私と接している限り、私にとって快適な人間関係は築けないし、それを抜きに付き合えないなら、少しずつ離れていくのが運命なのかもしれない。それを抜きにして、父が、赤の他人として、私を家族という範疇から外れた存在と捉えて、私と会話を持ったとき、父は少しは愉快な人間だろうか? それとも、相変わらず不愉快な、人のいい気分に冷や水をぶっかけるような存在だろうか? 分からない。小さい頃に、子供に、自分にキスをさせていた人間と、そういう関係として離れていくのは不可能なのかもしれない。

自分の子供時代を思っても、子供というのは人のいいものだと思う。父や母を喜ばせようと、一生懸命だ。父にキスすると、父は喜んだし、僕は(弟がどう思っていたのかはよく分からない)、やっぱり喜ばせようとした。ここまで書くと、実は自分はファザコンなのではないかと思う。確かに、父に対する劣等感はぬぐえないものがある。この劣等感から開放されようと、私はいろいろな努力をしてきた。偉大なる父と、そのプレッシャーに押しつぶされそうになる息子というのは、分かりやすい図式だ。私は確かに父を偉大なものと見てきたし、小学校、中学校の頃は、友人に父の自慢話までしていた。私の父は、確か二十二か、まあ、その辺のときに、一年かけて世界を回った。ヒッピームーブメントの頃だという話だ。イギリスの英語学校で英語を学び、アジアも行ったし、アメリカも行った。中国だけはまだ国交が正常化していなかったので行けなかったと聞いたことがある。世界の底辺ばかり行ってきたので、世界は素晴らしいと素直に言うことはできないと言っていた。それから、英語力を活かして地方の旅行代理店に就職し、転職はせずに今に至る。この世界旅行は本当に偉大だと思う。今でも、その功績そのものは思うが、世界を見てきた父が、今の性格に至ってしまったことを考えると、父が、自分の目に映してきた世界というのは、一体どのようなものだったのかと思うし、その経験を持った父が偉大になり得たかというと、なっていないことは明らかで、父を素直に偉大だと認めることは、今の僕にはできないのだ。あるいは、父を馬鹿にしながらも、私は父にいまだに劣等感を持っているのかもしれない。私は世界一周などしたことがないからだ。たいした経験を持っていないからだ。

そして、父にとって経験とは重要なものであり、いろいろなことを経験していない人間は、軽蔑に値するものなのだ。そして、その考えを僕は小さい頃から繰り返し聞かされてきたし、やがて自分の意見として口にするようにもなった。そして、自分にはそれだけの行動力がないことも知った。いずれ父を超えるためには世界を旅行しなくてはならないと考えるようになったし、今でも、父は、それをしない限り私を認めないのではないかと思う。ぶっちゃけた話、父にとって、私は軽蔑される存在であり、経験の少ない、馬鹿にされるような存在なのではないかと思う。そんなことはない、と言うかもしれない。それこそ、劣等感が呼び起こす感情だと。ひがみだと。被害者意識だと。考え過ぎだと言うだろう。実際、それを口にするたび、父は、ニヤニヤ笑いながら、「どうして素直に人の意見を聞けないんだ」と言ったものだ。けど、今こそ言うが、父の意見を素直に聞いたら、父は今度はそのことで私を下に見て、ニヤニヤ笑うのだ。父にとって経験だけが誇れるものであり、経験以外のすべては理解できないのだ。

私は悔しく思う。これこそ若者の悩みなのだろう。だが、赤の他人に言われるのはいいが、父が、この悩みを若者の悩みとくくって、自分に無関係だという態度を取ることにはまったく我慢がならない。いずれ父の気持ちが分かる日がくるといって、説明から逃げて、説明しろと迫るとニヤニヤ笑う姿が、一緒にいて愉快な人間の態度ではないことは分かるだろう。だから断絶するのだ。

この感情を落ち着かせる手段を私は知らない。今のところ、小説の中にあるのではないかと思う。

2000年2月12日

スタイルシートでちょっとパクってしまいました。変なタグは使っていないので HTML4.0 の strict だと思います。それはそうと,清水ちなみの「お父さんには言えないこと」でまたいろいろと考えさせられました。そして,きちんとした言葉に直された感情に感動しました。会社に入って,父の手紙に書いてあることにまるで気にせず,「うちは親と仲が悪いので」と公言していたら,実際,仲のよい家庭の方が少なかったです。この話,ちょっと続くんですけど,今日はこれまで。

そんな訳で続きを書くけど,「普通の家庭」「幸福な家庭」というのが既に一つの間違ったイメージであることを認識しなくてはなりません。もちろん,それを目指したり夢見たりすることは悪いことではないのでしょうが,そのために無理をするようでは本末転倒です。清水ちなみが言っていますが,結婚という制度や法律を調べるほど,これはお見合い結婚が当たり前だった時代の制度であり,恋愛とはなんの関係もない制度であるということが分かるということです。清水ちなみは「大結婚」の中でも言っていますが,結婚で発生するものは,そのほとんどが「義務」であり,手に入れられる「権利」は驚くほど少ないそうです(正確には遺産相続権だけ)。義務を背負うための結婚というイメージはないでしょう。ですが,制度としてはそうなのです。それを考えると,現在の結婚という制度は確かにお見合い時代の制度であるということが納得できます。

家族というものはもっと真剣に考えて,変化しなくてはいけないものなのではないかと思います。私は親の世代を見るにつけ,そこに価値観の違いを見出し,彼らに影響を与えたさらに上の世代のことを思います。世間体を気にする人々がいる中で,どうやら僕らはそれほど世間体を気にかけない世代のようです。だとすれば,親の世代の納得を勝ち取るなどという無意味なことはやめた方がいいのかもしれません。そこに生じる歪みを見るにつけ,もっと人は個人の幸せを追うべきなんじゃないかと思います。

この下のお休みのキスの話でも言っているけど,どうも私の両親は典型的な,「家庭の形を知らずに家庭を作ろうとした人」のようです。僕が小さい頃,僕の両親は(父も母も),私に,「自分はよい親か?」と質問してきました。そのたびに私は(小学校に入ったばかりだというのに生意気にも)「他の親を知らないので分からない」と答えてきました。弟に質問している姿も見たことがあります。本を読みながら感じたことで,こんな部分があります。「いったいこの人は何なのだろう」という父親に対する疑問。これはまさにそのものずばりです。私も父を見て,いったいこの人は何なのだろうと考えていた口です。本を見て驚くのですが,世の中の父というのは驚くほど家庭で虚勢を張り,暴力を振るっています。僕の父の暴力の思い出など大してありませんが,それでも記憶には残っているし,何より,自分のしたことと自分の受けた仕打ちのバランスがあまりにも悪くて,まったく精神衛生上よくありませんでした。

2000年6月6日

小さい頃の記憶はいくつかあるが、よく覚えていることの一つに「キャッチボール」の記憶がある。だが、いい意味でのキャッチボールではない。

何か家庭問題を考えるテレビを見ていて、父がその影響を受けたものである。「今の子供たちは、父親と一緒にキャッチボールをするという経験もない」というもので、親子の触れ合いとか、家庭での父親の役割などに言及していたが、それを見た父は何度か私を連れて近所の学校のグランドに引っ張り出した。

この記憶に弟が映っているのは一度くらいで、大抵の場合、父と二人きりだったような気がする。弟はうまく逃げていた。あるいはたまたまその場にいなかったとか、私の知らないところで父に引きずり回されていたか、あるいは父が私とキャッチボールをしたかったのかもしれない。私は父さんっ子だった。

父は、今でもそうだが、コミュニケーションと罵倒の区別がつかないタイプの人間である。私などは理解に苦しむのだが、「親しい人間同士はお互いに失礼なことを言い合うものだ」と思いこんでいた。父のこの病気は治ることもなく、どちらかというと悪化の一途をたどりながら現在に至っている。太ってる人間に対して、「ひでえなおい、ブクブクだな」などと笑いながら語りかけ、肩を叩くタイプの人間だ。これは誇張された表現ではなく、まったく本当に真の姿である。初対面の人間に笑いながらそのようなことを言うので、私は、父と一緒にいるとき、父を強く恥じていた。もちろん私も父の子だし、弟も父の子であるから、似たような傾向を自分の中に感じることがある。弟なども結構、「そういう言い方はないんじゃないか?」というようなことを言うことがある。多分、周りの人間から言わせると私もそうなのだろう。しかし、18年は一緒に暮らしてきて、いつも思うのが、父はやはり家族とのコミュニケーションの取り方にかなり問題があったんじゃないかと思う。

初めてキャッチボールをしたとき、父は、笑いながら私のボールの投げ方をからかった。これは、「からかった」という表現がピタリとくるような言い方で、笑いながら、「下手くそだな」「なってないな」などと言い放つのだ。僕は褒められようと、うまく投げてみるのだが、すぐにうまく投げられるはずもなく、父は、一球ごとに「違うだろ」「しっかり投げろ」などと笑いながら言うのだった。すぐに肩や腕は痛くなり、僕は苦しいのといちいち馬鹿にされるのとで、肉体的にも精神的にもくたびれてしまい、泣き出しそうだった。このときの気持ちというのはまったく今思い出しても辛いもので、僕は全然キャッチボールなどしたくなかったのに、父は笑うだけで、いつまでたってもやめようとしなかった。最初は「疲れた」などと言い、それから無口になったり不機嫌になったり、僕は一生懸命嫌だということをアピールするのだが、父はまったく気づいてくれない。最後には、僕は息を吸いこむように嗚咽をもらし(「嗚咽をもらす」という表現が少し大人びているとは思うのだが、うまい言葉が見つからない)、これ以上はやりたくないとその場にしゃがみこむ。だが父は笑いながら近寄ってきて「どうした? 疲れたか?」などと言うのだ。僕が黙って頷いても、そこでキャッチボールが終わることはなかった。どうも、ある程度の数を投げないと練習にならないと思っているのだ。そんなキャッチボールは、日が落ちるまで続いた。

それから、父が、「キャッチボールをやろう」と言い出すと、どうも表現しがたい気持ちになった。私は感覚的に、こういう気持ちになったことのある人間はそんなに多くはないと感じている。「タンスの角に足の小指をぶつけた」とか「寝てはいけないと分かっているのに二度寝してしまった」とか、そういうものとはまったく対称にあるものではないかと思う。

飲み込まれるような感覚だ。気が重く、吐き気を伴う。父は狂人のように笑っている。こちらの気持ちは何一つ通じない。毎回伝えようとするのだが、そのたびに裏切られ、失望する。だけど、何度でも僕は無口になり、適当にボールを投げ、自分が嫌がっていることを伝えようとする。その繰り返しは、とても疲れる。とても消耗する。父が飽きるまで続いた。父がキャッチボールをしようと言い出さなくなってからも、「父にキャッチボールをしようと誘われたときの気持ち」だけは忘れることがない。

2000年6月16日

キャッチボールに関係した話かもしれない。昨日の夜、母から電話がかかってきて、なんだかまた思うところがあった。

父も母も、私の心情を理解してくれなかったということに関しては私も自信があるが、それについて、「理解を求める前に、お前はそれだけの努力をしたのか」といった追求をしないで欲しい。それはもちろん、理解してもらうための努力を私がしてきたという自信がないからだ。だが、それだけの自信を持てる人がどれだけいるのか。また、どれだけやれば充分だと言えるのか、私には分からない。

どちらかというと、「家族は理解し合って当たり前」と思ってきた両親が、努力を放棄したようにしか感じられない。私は本当に疲れ果てたのだ。真剣にした話を笑い飛ばされることに、慣れろという方が無理だ。こういった理解は求めるだけ不毛であり、所詮無理のある話なのだ。だから、できる限り遠く離れて、顔を合わせない方がいい。子供の生活や行動にいちいち口を出すのは世の親の常だが、僕はそれに素直に反応することができない。笑って受け流すことができないのだ。やめてくれと懇願し、笑って受け流されることの繰り返しに(私の両親は昔から私の好きなものをいちいち否定してきた)、疲れたのだ。

お盆には帰らないという話をすると――私はまあ、これから先、冠婚葬祭以外の用件で両親を訪ねることはないだろうと思うが――じゃあ、行こうかな、などという。私は来るなと言った。なぜと聞くので、会いたくないからと答えた。笑いながら、薄情なことを言うのね、と言った。

できることならもう、一生会いたくないものだ。いつでも心に会う用意はあるが、こんな調子の人間とは会話にもならないだろう。

問題は、僕がどうして両親に理解を求め、両親の干渉に対して受け流すだけの余裕がないのかということである。その原因さえ掴めれば、多少は楽になるのではないかと思う。もっとも、私の父や母の言い方は、微妙に、受け流すということを許さない言い方なのだ。人を怒らせるセンスがあるというのだろうか? 確かに、そのセンスはあると思う。父も母も、人を怒らせるセンスだけは見事なものだ。私はいいように怒らされるが、それは確かに悔しい。屈辱的ですらある。いいように怒らされて、怒った姿を笑い物にされるのだ。私が怒り出し、両親が笑い、そんなコミュニケーションが、一つのコミュニケーションとして存在していた。怒ることで笑われるのはやっぱり惨めなものだ。その怒りが真摯なものであるほど、それは滑稽で、喜劇の様相を呈してくる。

頼むから放っておいてくれ。いい気分のときの俺の邪魔をしないでくれ。

2002年5月18日

ゴールデンウィークに久しぶりに実家に帰った。結論からいうとやはり居心地のよくない家庭であった。その正体が見極めてきたのでまた少しここにしるす。

僕の父は普段から怒りっぽく,人に対して感じ悪い態度を取りがちだが,酒を飲むとさらにその度がひどくなる。これは一つには酒のせいなのだと思うと少し納得がいった。もっとも,父はそういった自分の言動を覚えていないので,反省することもないし,すなわち父が酒を飲み続けている限りは僕の実家は居心地の悪い空間でありつづけるようだ。

こういうことを書くと,あまり事情を知らない人が「親のことを悪く言うものではない」といった内容の意見を言ってくることがある。けど,僕は思うんだけど,僕がここで何かを必死に訴えかけて(それがいまだに形にならないことに歯がゆさを覚えるが),単に伝わってないだけなのだと思う。僕の親はあまり,僕に対する一連の行動に対して罪悪感を持っていない。自分の子供には何を言ってもいいと思ってるし,それが家族なんだと思い込んでいる。まるで薄気味悪い宗教のようだ。

あまり個人の感覚というのは尊重されないのが世間である。僕が何を言ったとしても,個人的な不快感など尊重してはくれないだろ。

2004年1月6日

正月に実家に帰った。帰り際に父が言った。「一年に一度は帰って来いよ」僕は本当のことを言おうかと思ったが,それで事態がよくなるようには思えなかったので,「二年に一度は帰ってるだろ。それで満足してくれよ」と言った。これでも頑張って帰っている方なのだ。

僕の父は家にいるとずーっとテレビの悪口を言っている。あのアナウンサーの喋り方が悪い。この歌手の歌い方が悪い。この女優の顔が嫌だ。もちろん褒めることもある。この歌手はいい。この女優は好きだ。もうちょっと詳細に,どの部分が嫌いかとかどの部分が好きかとか言うときもある。

分からないかもしれないが,テレビに集中して見ているときに外野からそういう声を聞かされるのは興醒めもいいところだ。僕や母は「黙って見ろ」と言う。だが父は黙らない。それどころか,相手にしてもらって嬉しいかのようにニヤニヤ笑う。

父の悪いところは,人の「趣味」の部分に対して,感想を述べずにはいられないところだ。趣味なんてものは罪のない本来無意味なものだ。誰か他人の感想を求められるようなジャンルではない。だが父は喋り続ける。そして,厄介なのは,そういうことを年がら年中口に出されることで,相手をしているこっちに無用な情報が入ってしまうことである。簡単に言うと,こっちの性格まで悪くなってしまうのだ。父と同じ部屋にいると,聞かされるありとあらゆる感想のせいで気が滅入ってくるし,どんなものでも父が気に入るかどうかが気になってしまう。御機嫌をうかがっているわけではない。そこで,父の罵倒が始まり,家の中の雰囲気が悪くなるのが嫌なのだ。父が気に入るかどうかが気になると,目の前のものをまともに見られなくなるし,父以外の誰かと感覚を共有することが難しくなる。

僕は父とはなるべく会わない方がいいと思った。別の人間と会って,たくさんの人の反応から世間を学んだ方がいいと思った。父に似てしまった部分もあるだろうが,違う感性を僕は大事に育ててきたつもりだ。そして会わないことでこれからも順調に育てられると思う。

実家に帰るのはいいが,そのときは父がいないときがいい。

2004年9月20日

こういう言葉は使いたくなかったけれど,やっぱり自分はアダルトチルドレンだったのだ。

「お前もか」と言う前に少しだけ言い訳を聞いて欲しい。アダルトチルドレンというのは,誰かに言い訳として使うものではなく,自分で自分をそうなのだと認めることで,症状を軽くする効果があるものなのだ。医者が診断のために使う言葉ではなく,自分をそうだと言って表明することに意味があるのだ。聞く方としてはそれがどうしただし,そもそも聞いてそれほど愉快な話でもない。でも,こうして書く事に意味があるのだ。自分を知って,見失わないためにそういう言葉があるのだ。

先日,両親に会って,母から「面倒を見て欲しい」と言われ,父から「そろそろ結婚して欲しい」と言われた。思い出すと,長男なんだから,家族なんだからと,僕はずっと命令されてきた人間だったのだ。そして,反対もせず,期待に応えられるほど優秀な人間じゃなかったけど,せめて応えられる人間になりたいと思ってきたんだと思う。小さい頃に父から繰り返し聞かされてきた「長男なんだから」という言葉は,自分の中にしっかりと根を張っていて,逃げようとしても逃げられない呪いのようだ。義務? 俺は何だ? 父の期待に応えるだけのマシーンか? 父のお題目である「長男としての義務」を果たすためだけに生きているのか? そこから離れたい。離れたい。離れた自分には何もないのかもしれないけど,少しでもいいから離れたい。

次男だった父には,そういった命令がどれだけ心にのしかかるか理解できないのだ。私の弟にも理解できないのだ。それがよく分かる。自殺するというのも一つの手だが,もう一つの手段を考えた。ありがちだが,連絡先を残さず,完全に蒸発するのだ。私はそれを真剣に考え始めた。自殺よりも健全で建設的だ。

自分は正常だと思っていたけど,もっと具体的に病んでいるんだと分かった。意外と切実に,父と母から追い詰められているんだと分かった。

生き残らなくては。父の期待に応えられないからって,自分を殺すことはない。生き残らなくては。

2005年6月27日

パキスタンにいる父からは定期的にメールが送られてくる。少し読んだのだが,当地の宗教や国民性に対する愚痴ばかりで,嫌な気分になるのですぐに読むのをやめてしまった。僕もその影響は強く受けていて,何でもかんでもラベルをつけようとしたりするんだけど,父のメールを見ることは,それを戒めるよいきっかけになる。

当地の人間を見て「これだから○○は」という内容ばかりなのだ。

広く世の中を見れば見るほど,人と会えば会うほど,偏見や先入観を持たずに人対人として付き合えるようになるという意見もある。しかし,一部の人間は,人との出会いを,自分の中の偏った統計のためのひとつのデータとみなしてしまうようだ。はじめから偏見を持っているので,それから外れたことをすると「○○のくせに意外だね」,偏見どおりのことをすると「やっぱり○○は」となる。こういうのは見聞を広げても全然無駄で,自分がそういう思考をする人間だということを自覚することから始めないと治らないだろう。

治す,と言った。これを欠点かという点に関しては,僕は,そういう思考は周りの人間を不愉快にさせ,ひどい場合には不安を招き,安全さえ脅かすので,欠点だとみなしていいと思う。

ただ,これは気にするほどの問題じゃない。こういう人間は世の中にたくさんいるし,父という存在を特別なものと見ずに(つまり,父親というものに完璧な人間を求めずに),そういう人間のひとりだと思えばいいのである。

2006年1月9日

帰省した折に,ついに父を殴った。

何年も,このままの状態だったら殴るしかないなと思っていたので,ほとんど当然の結末だった。遅かれ早かれ殴ることになったのだ。滑稽に聞こえるのは充分に承知の上で書くが,十八歳のときに殴るべきだったのだ。それを今まで,十年以上も延期していた。父にきちんと感情をぶつけられなかったことに責任があるだろう。

殴ることは今までのことを積み重ねての行為であるとともに,今後は不愉快な思いをしたくないという建設的な意味もあった。顔を合わせて不愉快な思いをするのは,これっきりにしたかった。

父はそれを理解した。私はそう思う。なぜ自分が殴られたのかを,父は充分に理解していた。ショックを受けていたのも事実だが,理解していたのも事実だ。私と父の間には何年もの歴史があり,そのひとつの流れの中に,これはちゃんとあったのだ。

母と弟には理解を得られなかった。弟はその場にいなかったのでとくに分からないようだった。二人とも私と父には一番近い場所にいたはずなのだが,それでも二人の間の歴史の深刻さをまるで理解していないようだった。これがひどく感傷的に聞こえるのは理解している。前置きも長い歴史も書かずに,結論だけ読まされても,一般的な理解になってしまうだろう。母や弟のような反応になるはずだ。だけど,どの角度から考え直しても,道は一本きりで,ほかに選択肢はなかった。もうひとつの選択肢は,なるべく顔を合わせないようにするというものだったが,ここ数年はわざと顔を合わせていたようにも思う。

書けば書くほど,ただの異常者だよな。こんなことになって残念だ。

2017年8月24日

4月から久し振りに両親と暮らしている。こうなった経緯についてはまたあとで説明できると思うが、とにかく色々と気づきがあって面白い。面白いといっても実害もあって、ストレスフルな生活に胃に穴が開きそうである。距離が取れて自立ができているからこその余裕といってもいいけど、余裕というのはあるように思えて意外と無くて、たまに、『ここで死んだら楽になるかな』などと考えてしまう。突発的な何も考えられない状況というのが一番危ないし不本意でもある。気をつけて、まとめられるいつかのために自分の気持ちと向き合っておく。