2022年8月16日。富士山五合目。13年ぶり4回目の登頂。前日の15日に天気の関係でこのタイミングしかないと午後の半休と翌日の午前の半休を取得して富士山に登ってきました。40代でも一度登っておこうと思ったんだけど初めてのソロ登山で、自分がソロだとそこそこ速い方だというのが分かりました。
(2013年3月8日)以下に書かれている内容のほとんどは二十歳前後の頃に書いたもので、読み返すとかなり青いです。中二病というか大二病というか。そのうち最新のものに書き直して、このページは過去の自己紹介って形にするつもりです。
もともとのきっかけは過食症でした。仕事が忙しくなり、0時近くの帰宅が連続したときに、自転車での帰宅途中にラーメン屋に毎日寄っていたら――もちろん、夕方に社食も食べています――で二週間で七キロ太りました。スープもすべて飲み干していたんだから当然です。過食症という自覚はそれまでなかったのですが、夜に会社から出ると、「今日はどこのラーメン屋に行くか」を考えるのが染み付いていました。帰り道ではどこで食べるかを絶対に考えるのです。で、体重計に乗って――体重計に乗ろうと思った時点で過食症の治療は半分は成功していると思います。勝手な自分の意見ですが――七キロ増えた体重を見て、これはいかんと思いました。
もともと、ロードレースを観戦して、シクロバイクを買って通勤に使っていたので――GIOS の Pure だけど、ママチャリなんかより断然速いです。通勤もらくちんでした――帰り道で遠回りすればいいんだと思いました。なぜ自転車か。まず、ダイエットとしてもそうですが、コンピュータの仕事をしていて帰宅すると、0時に帰宅してもそれからクールダウンに二時間くらい使わないと寝ようという気にならないので、運動することで快眠を得ることが大事でした。かといってジムはこの労働時間では閉まっています。自宅での腹筋背筋腕立て伏せというのはよく聞きますが、私は何度も挫折しているので向いていないと結論を出していました。ウォーキングやジョギングも、膝や足首が痛くなり、どうも自分の骨格や筋肉はその手の運動には向いていないと思いました。これはもう十代の頃からなんとなく思っていたことでした。で、自転車です。勝手に走るだけなので営業時間には関係ないし、膝や足首などの関節にも関係ありません。まあ、これならいけるだろうと思い、帰宅で遠回りすることにしました。
自転車は自分に向いていました。半分はダイエットしなくてはという強迫観念もあったのですが、一時間の遠回りは毎日やっても飽きませんでした。それどころか、30分を越えたあたりから仕事のことが頭から抜けて、どうせ部屋でうだうだしているよりも生活リズムの組立としても効率的でした。
そのうち平均速度が20キロを越え、一時間は走らないと頭が空っぽにならない――30分では駄目――という事情もあり、スピードと共に距離の方が伸びていきました。多摩川まで遠回りし始めました。
ちなみにこの頃はスニーカーでペダルを踏んでました。メットもせず、自転車らしい装備といえば、せいぜい薄着くらいでした。自転車で走るとすぐに暑くなります。街乗り用のしょぼいライトで多摩川の真っ暗な道を走っていたんですから、今思うとひどいもんです。場所がバレますが、三鷹から小金井に帰るのに、吉祥寺から多摩川まで走って、府中から戻ってくるというコースです。地元ならどれだけアホな遠回りをしていたか分かるでしょう。友人の表現ですが、時計の12時から11時に行くのに3時や6時を経由する感じです。
このあとで、ヘルメットやビンディングペダルを買うきっかけというのもあるのですが、それはまた別の機会に。とにかく、スニーカー時代に体重はもとに戻りました。
メモはここで終わっている。しかし命令口調はよくないといいながら,書き写していてこっちがひるむほどの命令口調である。力強い。わははは。一応,誤字や,一部ひらがなの部分もそのまま写した。実際の文章はB5のノート2ページにシャーペンで書いてある。その2ページだけ破りとってあるから,それなりに大事にしてきた文章なのだ。最後の覚え書きは3行空いている。つまらないというのは──の先が気になるところだ。『よくない』というつもりなのか『次のような理由からではないだろうか』と続くのか,ちょっと私も分からない。あやふやな記憶だけど,多分後者だと思う。私は「好きでやっていることで,お金を貰う」ということを結構真剣に考えてきたから,その手の話をするつもりだったんじゃないかと思う。子供というのは3歳までは世話をしてやり,4歳になってからは自分の事は自分でするようにしつけるのが基本だそうだ。別に私に子供がいるわけでも,雑誌を見たわけでもない。親に,私をどう育てたか尋ねた結果の話である。私がその結論になって存在している。私は,まあ,極悪人というわけでもないので,親の育て方は成功したといえる。思い通りに育ったと思うと私としては面白くないが,作家に育てようとしたわけではないだろうから,ここで思い通りにならなかったというわけだ。
私に子供が出来たら,子育て小説みたいなのを書くつもりである。これはネタにするという意味もある。しかし私はなんとなく,世間の親が子育てに自信をなくし,おっかなびっくり育てているような気がする。しつけの仕方が分からないんじゃないかと思うのである。参考にしてもらうため実例を一つ出そうと思うのだ(非人間的な響きがあるな。まあ,いいか)。書いてない本についてけい告するのも変だ。だが,世間には似たような本がもうある筈である。だから言っておくが,そういう本は参考に過ぎない。最終的な判断は各自でするべきである。本とは本来そういうものだ。
たまに,人生とは,とか,いい人間とは,などという事に言及した本があるが,う呑みにしては駄目だと思う。あくまで筆者の個人的な価値観である。それだけ信じていると,応用が効かない。本を読みながら,そういう考え方もあると思っていた方がいい。大体,作家のいう事をまるごと信じていたら,自分は作家本人であると思う読者も出てくるハズである(小説のネタになりそうだ)。それでは何か変である。自分の意見の幅を広げるためとか考えながら本を読むべきなのだ(段落頭のような本は)。
そこで難しいのは童話や絵本である。他の小説は読者も自分の意見を持ってるからいいようなものだが,それらは自分の意見を持ってない読者に読まれるのである。そこには思想や攻撃があってはならない。テーマでさえ存在しないし,存在してはいけないのだ。童話作家には,ただもう尊敬するしかない。少年小説,児童小説になると話は変わる。そろそろ悪者が出てもいい頃である。私自身,山中恒や,作者は忘れたがぽっぺん先生シリーズなどを読みふけった。レベルが低い高いの問題ではない。誰を相手にするかの問題である。
官能小説や恐怖小説などはその最たるものだろう。読み手があるわけないと分かっているからいいのである。現実にあると混同された日には書いた方だってたまらない。そんなのルール違反である。読者も作者も現実世界に行きながら本と接触しているのだから,本は麻薬やアルコールと使い方は同じである。要はコントロールだ。自分で判断できないならやめておけ。
こう書いてる私だって参考意見に過ぎない。「こんな考えもありますよ」と言ってるだけだ。気に入るかどうかは別問題である。たまに作家はおごりたかぶる。作家だって人間だ。自分が偉くなったような気になって,こうすべきだと命令口調になったりする。何を私が言いたいのかというと,本屋で村上龍の『すべての男は消もう品である』を読んだのだ。ちょっと話題になった本だったので「おっ文庫本になったのか」と手に取った。私は本は暑くて安けりゃいい派の人間である。量があれば楽しめる。とにかくこの本は──とにかく命令口調である。わざとだとは思う。作家と読者の暗黙の了解を知った上で書いたんだろうが,自分の好みのタイプを言って何をしようというのか分からない。こっちの勝手だろと思うのである。こういう本は読み手が馬鹿だと危険な作用を持ってる。エッセイは難しい。その点,椎名誠の初期のエッセイなど上手である。さくらももこもうまい。読者との距離をちゃんと保っている。椎名誠の初期と言ったが,これは最近のを読んでいないのと,最近変わってきたという話をどこかで聞いたからである。最近のエッセイが悪いと言っているのではない。
物語というのはスケールにかかわらず出来事がある。出来事がないと物語にならない。そこに小説が現実を越えられない部分があると思うのだが,皆さんはどう思うだろうか。
チャリティーコンサートがつまらないというのは──