長谷川一成とはそのそも何者なのか

2022年8月16日富士山五合目

2022年8月16日。富士山五合目。13年ぶり4回目の登頂。前日の15日に天気の関係でこのタイミングしかないと午後の半休と翌日の午前の半休を取得して富士山に登ってきました。40代でも一度登っておこうと思ったんだけど初めてのソロ登山で、自分がソロだとそこそこ速い方だというのが分かりました。


(2013年3月8日)以下に書かれている内容のほとんどは二十歳前後の頃に書いたもので、読み返すとかなり青いです。中二病というか大二病というか。そのうち最新のものに書き直して、このページは過去の自己紹介って形にするつもりです。


(2002年9月17日 追加)うーん。まあ,パソコンで録音すればこんなもんだろうな。音が小さかったのでちょっと調整したら,びっくりするくらいのボリュームになりました。注意してください。聞き直すと暗い声ですが,マイクに向かって無邪気に明るい声は出せません。
生年月日
YYYYMMDD……当たり前だが,この辺からパスワードを探しても無駄なことである。『世代』という言葉は偏見を助長するだけで,人を理解する上で何の役にも立たない言葉だと思っていたが,最近になってやっと『世代』というものは逃れられず,一生ついてまわるということが分かり始めてきた。よって,最近はその言葉を使うことにそんなに抵抗がない。あ,ちなみに星座は牡牛座です。(2013年11月12日)生年月日を書いてたんだけど、役所の問い合わせなどでは生年月日を言うだけで回答してくれるそうで、そうとなるとさすがにマズいかと隠す。まあなんとなれば取得しようと思えば取得できちゃうだろうけど。
性別
出身
秋田
あらまし
高校時代はバドミントンをやっていた。大学に入ってから演劇部に入り,芝居をやるようになった。最近まで悪人に憧れていたが,悪人になりきれる性格をしていないことに気づき,いい人を目指す。悪人は物語の中だけにすることにした。あ、あと、貧乏性です。買えるお金があっても高いものはあまり買いません。
人間観
(2019年11月20日)「人間は条件が整えばどんな残酷なことでもする。環境に反応して適応する単純な性質をもっている」という考え方をしていて、これは性別とか年齢、人種や育ちの文化といったものを超越した人間共通のものだと考えています。よくある誤解なのですが、人間の本質は悪であるとか逆に本質は善であるとかいう考えではなくて、深いように思っているけど、人間に本質とか本来の性質なんてものはなくて割と薄っぺらなものなんじゃないかということです。周りに合わせて悪いこともいいこともするし、恐怖に襲われれば正常な判断力を失うし、みんなが穏やかなら本人も穏やかになるし、人間というのはそういうものだと私は考えています。ブラジルに行けば陰気な人も踊るし、日本に来れば周りの迷惑考えるし、どんな人でも割とええかげん。
受験勉強
初めての受験勉強は,地方出身者にありがちの高校受験だった。受験勉強が思春期において必要なものかというとかなり疑問を感じるが,自分に関しては受験勉強が必要なステップだった。それは究極の所,嫌なことをやらなくてはならないという最初のステップであると思う。丁度,中学二年から三年の時期,私は受験勉強をくだらないものだと見下していたし(その本質──人間性の判断としてテストが用いられるということ――に関しては考えは変わっていない。それに,「人生は短く,嫌なことをやっている暇はない」というのはまったく正当だと思う),どうして高校に進学しなくてはならないのかという『本当の』理由に対する解答をまったく得られなかった時期であった。ちなみに,この本当の理由を私は未だに得られず,人生のテーマの一つとなっている。それでも自分は,その疑問に対する解答を一時保留にして,「とりあえずやるか」と理屈以前の行動に移したのだ。いわば,受験は「一時保留のテクニック」を覚えるためのものであった。同時に,社会人が,「一時保留」のまま,その精神と,命の可能性を,ただひたすらに,大根おろしのようにすり減らしているだけでいうことも自覚していた。平凡に生きることの価値を,私は未だに掴めずにいる。だが,自分にとって,受験勉強という無意味な努力がもたらす人生に対する疑問は,とても大切なものだったと思う。
趣味
読書が趣味などと書くといかにもだが,趣味なのだから仕方ない。映画,漫画も好き。プログラミングも好きなんだけど,最近はいじってない。人からはよく趣味が多いねと言われます。好きな本については後述。(2006年7月16日)フジロックは毎年行ってます。最近,アニメが自分の時間を占めてきた。スポーツについては下を参照。
スポーツ
(2004年6月17日)スノボとバドミントンと自転車をやってます。バイクツーリングもスポーツと言っていいのか? 最近は年をとったせいか頭を使うのがしんどくなってきました。観る方では,バドミントンと自転車を観ます。あと,サッカーは見るだけの人間です。(2010年3月15日)スノボとバイクはほとんどやらなくなりました。スノボはもう渋滞にうんざりし、バイクは自転車にとって代わられました。
自転車
(2010年3月14日)上では観るだけだった私ですが2005年あたりから自転車をスポーツとしてやり始めました。よく聞かれるのできっかけなどをここに書いておきます。

もともとのきっかけは過食症でした。仕事が忙しくなり、0時近くの帰宅が連続したときに、自転車での帰宅途中にラーメン屋に毎日寄っていたら――もちろん、夕方に社食も食べています――で二週間で七キロ太りました。スープもすべて飲み干していたんだから当然です。過食症という自覚はそれまでなかったのですが、夜に会社から出ると、「今日はどこのラーメン屋に行くか」を考えるのが染み付いていました。帰り道ではどこで食べるかを絶対に考えるのです。で、体重計に乗って――体重計に乗ろうと思った時点で過食症の治療は半分は成功していると思います。勝手な自分の意見ですが――七キロ増えた体重を見て、これはいかんと思いました。

もともと、ロードレースを観戦して、シクロバイクを買って通勤に使っていたので――GIOS の Pure だけど、ママチャリなんかより断然速いです。通勤もらくちんでした――帰り道で遠回りすればいいんだと思いました。なぜ自転車か。まず、ダイエットとしてもそうですが、コンピュータの仕事をしていて帰宅すると、0時に帰宅してもそれからクールダウンに二時間くらい使わないと寝ようという気にならないので、運動することで快眠を得ることが大事でした。かといってジムはこの労働時間では閉まっています。自宅での腹筋背筋腕立て伏せというのはよく聞きますが、私は何度も挫折しているので向いていないと結論を出していました。ウォーキングやジョギングも、膝や足首が痛くなり、どうも自分の骨格や筋肉はその手の運動には向いていないと思いました。これはもう十代の頃からなんとなく思っていたことでした。で、自転車です。勝手に走るだけなので営業時間には関係ないし、膝や足首などの関節にも関係ありません。まあ、これならいけるだろうと思い、帰宅で遠回りすることにしました。

自転車は自分に向いていました。半分はダイエットしなくてはという強迫観念もあったのですが、一時間の遠回りは毎日やっても飽きませんでした。それどころか、30分を越えたあたりから仕事のことが頭から抜けて、どうせ部屋でうだうだしているよりも生活リズムの組立としても効率的でした。

そのうち平均速度が20キロを越え、一時間は走らないと頭が空っぽにならない――30分では駄目――という事情もあり、スピードと共に距離の方が伸びていきました。多摩川まで遠回りし始めました。

ちなみにこの頃はスニーカーでペダルを踏んでました。メットもせず、自転車らしい装備といえば、せいぜい薄着くらいでした。自転車で走るとすぐに暑くなります。街乗り用のしょぼいライトで多摩川の真っ暗な道を走っていたんですから、今思うとひどいもんです。場所がバレますが、三鷹から小金井に帰るのに、吉祥寺から多摩川まで走って、府中から戻ってくるというコースです。地元ならどれだけアホな遠回りをしていたか分かるでしょう。友人の表現ですが、時計の12時から11時に行くのに3時や6時を経由する感じです。

このあとで、ヘルメットやビンディングペダルを買うきっかけというのもあるのですが、それはまた別の機会に。とにかく、スニーカー時代に体重はもとに戻りました。

フィクション
暗い作品が好きである。暗い映画。暗い小説。暗い漫画。暗い雰囲気。暗い人間も嫌いではない。暗い音楽も好きだ。そういう雰囲気にひたるのが好き。(2004年6月17日)これは結局,作者が一番伝えたいものがダイレクトに伝わるから好きなんだと思う。陽気なフィクションももちろん好きだけど,楽しみ方がまるで違う。
自己紹介
ここのページを目的を持って訪れた人ならここは見ないと思う。なんとなく来た人がここを覗いて行くのだと思う。そう思うとやっぱりこの手の自己紹介のページというのは難しいというか,まあ何だかよく分からない。自分のことはこのページよりどこか他の所に表れているのではないかと思うのだ。けど、こういうページも必要なんだろうなと思って作ってます。(2002年10月27日)写真なんか掲載してストーカーの心配とかされたことありますが,そんなものはあんまりないと思います。
長所(2005年5月20日)
偏見や先入観は少なめ。いざというときの集中力には自信がある。瞬発力を使ったスポーツは大抵こなせる。
短所(2005年5月20日)
コンプレックスが強い。持久力が要求されるスポーツは苦手。
小説
自分を形成したのは本と友達であると断言していいと思う。この前,大学の知人達と自分を育てたものとして親か教師かという話になったのだが,私は断固友人である。私は友達に育てられた。今まで,本当の意味で影響を受けた小説は,無理矢理断言すると三冊。いや,四冊か。 五冊になった。エンターテインメントについて,なんて生島治朗からの受け売りを喋りたい気分だが,やめておく。
音楽
どんな音楽を聞いているかで個性を表現する年齢でもなくなった気がする。「なに聞く?」と言われて何か歌手の名前を言って,それで「ああー」なんて納得されることに違和感を感じるのである。ま,その辺を覚えておいてもらってちょっと名前を言いましょう。やっぱり聞く音楽にはそれなりにこだわりがあるからね。言ってること滅茶苦茶だけど。あ,やっぱり歌は歌詞がちゃんとしてないといかんよ。やっぱり中学生の頃は「THE BLUE HEARTS」「THE BOOM」を聞いていた(こうやって書くとやっぱり音楽っていうのはなんか時代を表すなあ……内容とか音楽そのものではなくて,音楽を聞くとそれが流行っていた頃を思い出すっていうことでね。本とか絵画,映画でさえそういう力はないからなあ)。ま,それで高校は間違いなく「FLIPPER'S GUITAR」と「遊佐未森」で決まりである。大学に入ってからは「NINE INCH NAILS」「UNDERWORLD」。テクノを聞くようになりましたね。最近のお気に入りは「Cocco」。こうやって並べて自分でいうのもなんだけど,どれも歌詞がすごいです。「UNDERWORLD」はテクノだし,テクノは自分にとって,歌詞からの開放,って感じだけど。はい。追加で「椎名林檎」。(2000年9月22日)追加で「GO!GO!7188」。(2002年4月29日)追加で「グレイプバイン」「スガシカオ」「ビョーク」クラシックでは「バッハ」が好きです。
家族
結局両親とはまともな関係を築くことができなかった。私が何を言っているのか理解してもらえないのだから仕方ない。(2007年2月4日)左の文章を書いたのはもう十年も前の話で、今は普通の距離感になっています。うっとうしいともあまり思わなくなりました。
恋愛
これがねえ。まあ,彼女はいないんですが,安易に『彼女募集中』っていうのかというとこれがよく分かんないんですわ。なんだかんだいって自分好きですから。それでも誰かを愛したいんですけどね。知り合いに言わせると,『それはまだ出会っていないだけ』だそうです。ま,今のところその言葉を信じる以外になさそうです。(2003年8月9日)そろそろ彼女いない暦も10年になりそうです。なかなか人を好きにならない性質と,好きになると行動に移せない性格があって「これじゃなかなかできないよな」としみじみ思います。
好みのタイプ
ショートカットがとても好き。最初に目がいきます。あと、何度も同じことを言わない人。常識かもしれないけど。(2003年5月18日)映画を観ていて,同じ女優を気づかずに何度もチェックするという出来事を経験しました。外見的に,一貫して自分が惹かれる女性(惹かれてるのが外見なのか仕草なのかは分からんけど)っていうのが自分にもあるみたいなのでここに書いておきます。「田中美奈子」「大竹しのぶ」「遠藤久美子」「釈由美子」「さとう珠緒」「ハル・ベリー」「アン・ヘッシュ」「鈴木茜」
発掘物・その1
引越しをして部屋を整理していたら,高校の頃の文章が出てきたので公開する。文庫本で村上龍の『すべての男は消耗品である』が出て,それを立ち読みしたときの感想のようだ。僕は小さい頃から,自分が本を出版したらそのあとがきはしっかりしたものを書こうという(結構,作家希望の人間は同じことを考えている)思いがあったので,そういう『あとがき』のためのアイディアだと思う。

子供というのは3歳までは世話をしてやり,4歳になってからは自分の事は自分でするようにしつけるのが基本だそうだ。別に私に子供がいるわけでも,雑誌を見たわけでもない。親に,私をどう育てたか尋ねた結果の話である。私がその結論になって存在している。私は,まあ,極悪人というわけでもないので,親の育て方は成功したといえる。思い通りに育ったと思うと私としては面白くないが,作家に育てようとしたわけではないだろうから,ここで思い通りにならなかったというわけだ。

私に子供が出来たら,子育て小説みたいなのを書くつもりである。これはネタにするという意味もある。しかし私はなんとなく,世間の親が子育てに自信をなくし,おっかなびっくり育てているような気がする。しつけの仕方が分からないんじゃないかと思うのである。参考にしてもらうため実例を一つ出そうと思うのだ(非人間的な響きがあるな。まあ,いいか)。書いてない本についてけい告するのも変だ。だが,世間には似たような本がもうある筈である。だから言っておくが,そういう本は参考に過ぎない。最終的な判断は各自でするべきである。本とは本来そういうものだ。

たまに,人生とは,とか,いい人間とは,などという事に言及した本があるが,う呑みにしては駄目だと思う。あくまで筆者の個人的な価値観である。それだけ信じていると,応用が効かない。本を読みながら,そういう考え方もあると思っていた方がいい。大体,作家のいう事をまるごと信じていたら,自分は作家本人であると思う読者も出てくるハズである(小説のネタになりそうだ)。それでは何か変である。自分の意見の幅を広げるためとか考えながら本を読むべきなのだ(段落頭のような本は)。

そこで難しいのは童話や絵本である。他の小説は読者も自分の意見を持ってるからいいようなものだが,それらは自分の意見を持ってない読者に読まれるのである。そこには思想や攻撃があってはならない。テーマでさえ存在しないし,存在してはいけないのだ。童話作家には,ただもう尊敬するしかない。少年小説,児童小説になると話は変わる。そろそろ悪者が出てもいい頃である。私自身,山中恒や,作者は忘れたがぽっぺん先生シリーズなどを読みふけった。レベルが低い高いの問題ではない。誰を相手にするかの問題である。

官能小説や恐怖小説などはその最たるものだろう。読み手があるわけないと分かっているからいいのである。現実にあると混同された日には書いた方だってたまらない。そんなのルール違反である。読者も作者も現実世界に行きながら本と接触しているのだから,本は麻薬やアルコールと使い方は同じである。要はコントロールだ。自分で判断できないならやめておけ。

こう書いてる私だって参考意見に過ぎない。「こんな考えもありますよ」と言ってるだけだ。気に入るかどうかは別問題である。たまに作家はおごりたかぶる。作家だって人間だ。自分が偉くなったような気になって,こうすべきだと命令口調になったりする。何を私が言いたいのかというと,本屋で村上龍の『すべての男は消もう品である』を読んだのだ。ちょっと話題になった本だったので「おっ文庫本になったのか」と手に取った。私は本は暑くて安けりゃいい派の人間である。量があれば楽しめる。とにかくこの本は──とにかく命令口調である。わざとだとは思う。作家と読者の暗黙の了解を知った上で書いたんだろうが,自分の好みのタイプを言って何をしようというのか分からない。こっちの勝手だろと思うのである。こういう本は読み手が馬鹿だと危険な作用を持ってる。エッセイは難しい。その点,椎名誠の初期のエッセイなど上手である。さくらももこもうまい。読者との距離をちゃんと保っている。椎名誠の初期と言ったが,これは最近のを読んでいないのと,最近変わってきたという話をどこかで聞いたからである。最近のエッセイが悪いと言っているのではない。

物語というのはスケールにかかわらず出来事がある。出来事がないと物語にならない。そこに小説が現実を越えられない部分があると思うのだが,皆さんはどう思うだろうか。




チャリティーコンサートがつまらないというのは──
メモはここで終わっている。しかし命令口調はよくないといいながら,書き写していてこっちがひるむほどの命令口調である。力強い。わははは。一応,誤字や,一部ひらがなの部分もそのまま写した。実際の文章はB5のノート2ページにシャーペンで書いてある。その2ページだけ破りとってあるから,それなりに大事にしてきた文章なのだ。最後の覚え書きは3行空いている。つまらないというのは──の先が気になるところだ。『よくない』というつもりなのか『次のような理由からではないだろうか』と続くのか,ちょっと私も分からない。あやふやな記憶だけど,多分後者だと思う。私は「好きでやっていることで,お金を貰う」ということを結構真剣に考えてきたから,その手の話をするつもりだったんじゃないかと思う。
エッセイ
エッセイを素人が書くのはとても難しい。しかし,誰が書いてもいいものだ。エッセイとして必要な条件というのはいくつかあると思うが,その前に自分はエッセイというものをよく分かっていない。ここまで読んで「この長谷川一成というのは馬鹿なんじゃないか」と思った人は正解である。読み直すと,考えすぎて何の結論も出せずにいるのが本人にも分かっている。で,だから言うけど,誰でもエッセイ的なものを書いていいんじゃないかということである(話が飛び過ぎか……つまり,何も考えずに結論を言うと,だ)。それが面白ければ読む人は増えるだろうし,つまらなければ減るだけだ。それに関して,素人も玄人も関係ないと思う。だから,誰が書いてもいいのだ,と思う。
誤解
限界や感情の臨界点が急に現れて,それまで平気そうな顔をしているので,疲れているとか楽しいとか悲しいといった気分を察してもらえないです。周りの人間にとっては,「急に怒り出した」とビックリするような感じらしいのですが,自分ではちゃんとそこに至る経緯があるのです。人と話していたら,「察してもらえないというのは分かる」と言われました。今までの経験から言うと,察してもらえないようです。嬉しいときもあまり感情が表に出ないのがよくないんだと思います。そして,多分,本当に隠したい感情はすぐに周りに伝わるのでしょう。
使ってるパソコン
過去の履歴なども残しておきたかったので別ページにまとめました。(2008年9月28日)
弟が一人います。
ゲーム
今までの最高傑作がやはり「トゥームレイダー」。これがゲームオブゲームズ。あと任天堂のゲームは好きです。他には「TATSUJIN」「キャメルトライ」「イメージファイト」「ガンフロンティア」「レイディアント・シルバーガン」。ほとんどシューティング。思い出として残っているのはやはりイメージファイトかなぁ。ゲーセンでクリアしたゲームは少なくて「キャメルトライ」「ゼクセクス」「パズルボブルシリーズ」くらい。もちろん,好きなゲームは他にもたくさんあります。18禁のゲームよりもパソゲーだったら洋ゲーの方が好き。暴力的で過激な奴で,攻略本もないような奴。これはこのサイトのあちこちで書かれているけど,愛より死に心惹かれるという私の性質がそうさせるのであると思う。(2006年1月10日)追加で,「GTA」「斑鳩」。
セルフイメージ
他人の目に自分がどう映っているか,自分なりに書いてみると(こうありたいという願望をできるだけ排除して),多分,意外とまともで真面目だと思われると思う。それに,多分,確かに自分はまともで真面目なんだと思う。真面目というのがなんなのかちょっと私にはよく分からないので,人から「真面目そう」などと言われるとすごく困惑するけど,世の中には真面目じゃなくて,いわゆるいい加減な人間というのも確かにいるわけで,それと比べれば確かにちょっと自分は,いい加減,という形容は似合わないだろう。あと,好奇心が強い。知らないことは知りたいと思う。それもいわゆる「知識」の方向じゃなくて,「マニアック」な方向に好奇心が強いので,○○マニア,というものが存在すると,その世界が気になるのである。自分がマニアかというとちょっと分からない。確かに人からマニアックと見られることもあるが,そのマニアックな知識というのは,結局,その世界を覗きこんだときに得た知識だからである。
自分についてのより深い(つもりの)分析
コミュニケーションについては特に未熟ですね。実を言うと,人間というのは多かれ少なかれコミュニケーションに不安を持っているのではないかとか思っていたのだけど,世の中には他人との距離がきちんと測れて,しかもそれを無意識のうちに行い,その中のさらに何人かは,自分のその能力こそ誰でも持っているものだと思っている人がいることを知りました。私は,一回話した人と,二回目に話すのが特に苦手です。初対面のときは逆に遠慮なく話せるのだけど,二回目にどこまで親しくなったのか,三回目,四回目はどうかなどと考えてしまいます。だから私は,変な例え話だけど,一回目のデートでいきなりホテルに誘う奴とか,十回目のデートでもキスもしない奴,といった人間の方がどちらかというと分かります。どこまで親しいのかという感覚が自分で掴めていないので,変に馴れ馴れしかったり,変によそよそしかったりするのです。友達をたくさん作るというのは,逆にいうと二回目,三回目のフォローがうまい人間のことだと思います。しかし,私は馴れ馴れしくされるのもやはりちょっと落ちつかないので,とても難しいです。
お礼について
世の中には多いらしいけど、僕も典型的な、「言うべきお礼を言わない」人間で、これまでのことを思い出すと無性に、自分のことを誰も知らない世界に行きたくなってしまいます。今までの失礼を思い出し、「あのときはどうもありがとうございました。お礼が遅れて申し訳ありません」と言いたいのだけど、こういうのは時期を失うとどうにも躊躇してしまわけです。たとえ遅れていてもお礼は言った方がいいんでしょうか? よく分からないですね。特に印象に深いのは、北海道にバイクで旅行に行ったときで、大学の寮生の後輩の実家にお邪魔したんだけど、これが、ホントに、さんざん世話になったくせに何のお礼も言わなかった。もちろん、バイト先や旅行先の失礼を思い出すときりがないけど。なんというか、あの頃は相手がどんな気持ちで迎えてくれたのか全く考えていませんでした。本当にすいません。今でもお礼を言い忘れることはあるけど、日々努力してまともな人間になろうとしていますので、よろしくお願いします。
エゴグラムによるあなたの性格診断結果
あるページにこんなリンクが張ってあって、「なるほど、これも一つの手だな」と思い、やってみた。こんな感じです。(2004年5月20日)リンクが切れていたので別の性格診断をやってみました。ローカル保存したコピー
嫌いなタイプ
あるとき自分で、「確かに自分には嫌いなタイプの人間というのがある。それはどんな人間だろう?」とふと疑問に思ったので、ここで定義してみる。嫌いじゃないタイプから言うと、マニアックだったり内向的だったりする人間は別に嫌いじゃない。むしろ、外向的で、内向的な人間をからかったり、みんなの前で物笑いの種にする人間などはかなり嫌いだ。不潔な人間というのもさすがに嫌いだが、長期的に見て嫌いかというとよく分からない。ただ、知り合いに物を食いながら喋るときにやたら口の中を見せる奴がいて(見せるというより無意識に大きく開ける)、そういうところだけは勘弁してほしいと思う。まあ、どうにも慣れない部分だけど、嫌いなタイプとはちょっと違うな。体育会系も種類によっては嫌いだけど、騒々しいだけなのは別に嫌いじゃない。暑苦しいのも別にどうということもない。当たり前だけどやたら先輩風を吹かす奴はあんまり人間的に尊敬できないですね。今のところこんなもんかなぁ。
目標について(2001年7月9日)
人間って色々な目標がありますよね。テストでいい点を取りたいとか、彼女が欲しいとか、きれいになりたいとか、うまいものをたらふく食いたいとか、パイロットになりたいなんてものもある。目標も夢も欲望もいっしょくたにしてとことん羅列してみると、自分がどんな人間になりたいのかっていうのが分かってくる。人とそんな話をしていて気づいたこと。そういう目標を並べてみると、僕は結局「みんなに愛されるような人間になりたい」のだと気づいて愕然とした。愛される人間。この理想像を何が悪いんだと思うかもしれない。けど、すごくカッコつけているように聞こえるだろうけど、僕の理想像はそうではないのだ。人としての理想像は、愛する人だと思うのだ。ここが大事な点だ。僕が目標としてきたことは、程度の差こそあれ、その最終的な目標として人に愛されようということにほかならない。これでは愛する人という理想像とはまるで違う(対立する要素ではない。ただ、僕の理想としての目標ではないのだ。愛される人というのは僕の理想ではないし、そのために努力するようなものではない)。理想としての人物が人を愛する人であるなら、その目標に対する行動も愛することを目的としなくちゃいけない。周りの人を安心させること。笑わせること。許すこと。大丈夫だと言うこと。愛することを目標とするなら、そのために何をするべきかというのも考えることができる。今までの行動が人に愛されることを目的としたものだったと気づいて、僕は愕然としたのだ。
座右の銘(2002年4月29日)(2004年4月15日)(2005年8月23日)
「生きるということは痛みに耐えることなのよ」「エンターテインメントはシンプルに楽しむためのもの」「生ける者に叡智を標榜する権利はない」
購読している雑誌(2019年11月11日)
「Komiflo(オンラインエロマンガ購読)」
購読している雑誌(2005年11月19日)
「アフタヌーン」「ゲーム批評」「TV BROS.」「IN POCKET」
好きな食べ物(2006年7月16日)
嫌いな食べ物(2006年7月16日)
嫌いじゃないんだけど,カップラーメンは食べると体に変調が出るのでもう食べられません。それでも無理して食べるときはあります。翌日には口内炎が出来て味覚は狂います。
最近のネットでの主な活動場所
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